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わたしたちのけえべん(西大寺鐵道の思い出)

西大寺鐵道展(2009.3.13~5.24)のお客様に、西大寺鉄道の思い出を書き記していただきました。
西大寺鉄道は、みんなの“けえべん”です。

運転士
  • けえべんでの通学時代「軽便会」という会をつくり、いつまでもそのつながりを楽しんでいます。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • けえべんの運転士の方が帽子を飛ばされたので、拾って財田駅へ届けた。
    (60代・岡山市内の男性)
  • 後楽園の駅に、車両を乗せて回転する転車台があった。子どもの頃、それを押して遊んだ記憶がある。市内の学校から百間川のあたりに行ったことがある。皆が面白がってゆさゆさ車両を揺らして注意された。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 乗車は閉業の数日前に一回だけ。裸祭りのとき、すずなり乗車で乗れず、岡山市内から歩いて往復。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 学生だった30年代、通学に利用していた。西大寺-財田東岡山-法界院、乗り換えが2回もあったけれども、仲間と語り合ったり、読書したりできなつかしい思い出です。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 原尾島駅の競馬へ弁当を腰に巻いてその駅でどーっと乗り降りした男たちの姿が浮かびました。
    (70代以上・岡山市内の女性)
転車台作業(財田駅)
キハ2
  • 西大寺から森下まで乗車していました。終戦当時は満員になり、列車の屋根に乗り電線を頭に引っかけたこともありました。写真を見ながら当時をなつかしく思いました。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 4歳のとき、父の入院見舞のため乗車中、窓ガラスより帽子が飛んでしまいました。
    (60代・岡山県内の男性)
  • 子どものころ、邑久町からバスで来てけえべんで広谷まで連れられてよく行きました。
    バスを降りて猿のオリの前によく行きました。リョウビとカンコという猿がいたと思います。
    (50代・岡山市内の女性)
  • 昭和22年から3年間通学のため西大寺から森下まで、28年から2年間通勤のため、このときは財田で本線に乗り換え、利用させてもらいました。
    22年頃は戦後の混乱時期でもあったので、朝晩の混雑はひどく、男の人たちは屋根に乗ったり、私たち女の子も乗りのこされたら大変なので窓から乗ったりしたこともありました。
    手提げカバンではデッキの柱にしがみつくのも危ないので、男の子たちのように肩から掛けるカバンを縫ってそれで通学しました。
    また梅雨の時分、長利のあたりの線路とか道が冠水して車が動かないので次の駅まで歩いたこと、小さな森下の駅にも駅舎の隅に売店があり、いつも横目で見ていたことなど、いろいろと思い出しました。
    (70代以上・岡山市内の女性)
  • 終戦直後、食糧買出しで後楽園から西大寺まで何回か乗ったのでなつかしく思った。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 昭和20年5月、学徒兵として大勢の人と日の丸の旗に送られた西大寺駅。父母と別れを告げたとき、「果たして元気でこの駅に帰ってくることが出来るかどうか…」と思った悲痛な思い出があります。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 少年時代がよみがえり、心の洗濯になりました。母方の田舎が中井でしたので、後楽園~藤原駅間を利用しました。
    思い出話は多くありますが、その中でも絶対忘れることのできないことがあります。藤原駅で降り損ねて大師駅で降り、線路を逆に歩き、藤原まで帰ったことです。西の方に沈む夕日を見ながら…
    (60代・岡山市内の男性)
大師駅
さよならけえべん 西大寺市駅ホームで出発セレモニー
  • 祖父の実家が雄町にあり、春と秋必ず遊びに行きました。大師の駅で下車、田んぼのあぜ道のようなところを通って行きました。また、社会人になってから財田駅で下車、山陽線に乗り換え熊山へハイキングにも行きました。
    (60代・岡山市内の女性)
  • とにもかくにもなつかしい。特に西大寺駅にあった小便小僧、猿のオリ…。西側にカレーまんのおいしい店があった。
    あのころは、夏には渋川や沙美行きのバス、また玉島・倉敷方面への特急バスが走っていた。
    (50代・岡山市内の男性)
  • 小中学生のころ、幾度か乗りました。終了のイベントがこんなに華々しいものだったとは知りませんでした。
    高2のころでしたが、参加しなかったのが心残りです。
    (60代・岡山市内の女性)
  • 黒住教の御神幸祭が毎年4月上旬にあるとき、祖母に連れられて必ず乗車していた「けえべん」。
    今は両備バスで岡山へ通勤しているが、なぜかけえべんに乗車していたころの方が運転手さんもほかの人も全体的にゆとりがあり、人情味あふれていたように思う。
    (60代・岡山市内の女性)
  • 父の自転車の荷台に乗せてもらって西大寺まで出て来て、自転車と共にけえべんに乗って岡山へ連れて行ってもらった思い出があります。
    (50代・岡山市内の女性)
  • やさしい祖父母のいる西大寺へ行くためけえべんによく乗った。小学校入学記念に自転車を買ってもらい、財田駅で乗り換え下車した際、デッキに積んだ自転車を降ろすのを忘れ、電車が動き出して気が付き、大声で泣き叫び続けたことをよく覚えています。
    (70代以上・岡山県内の男性)
キハ5
キハ7
  • 夜間高校に通っていたとき、後楽園駅を夜9時発の最終に乗って森下駅で止まらずに我が家の前で何回も降ろしてくれたことがあった。
    (60代・岡山市内の男性)
  • 広谷駅より西大寺まで通学で3年間乗っていました。さらに通勤で広谷駅より財田まで行き山陽線に乗り換え岡山まで1年半乗っていました。広谷駅で乗るとき、いつも走って行ってました。遅くなると待ってくれてました。
    (60代・岡山県内の女性)
  • 小中学校のころ、西大寺に住んでいたときに乗ったことが思い出されます。銀河鉄道が天の河に向けて旅立っていくことを最後の出発式のときと重なって、とても懐かしく思いました。
    (50代・東京都の男性)
  • 駅前のサクの中にいた猿にキャラメルを与えたところ、包みを開いて食べたこと。木製の改札を通り、デッキに自転車を
    乗せたこと。財田と後楽園に下車し、亡き父の自転車に乗せてもらい、岡山市へ遊びに行った思い出があります。
    (60代・岡山市内の男性)
  • 太平洋戦争で負けて、ボロボロになっていた日本の復興とともに走ってきた西大寺鉄道。これが、太平洋戦争が始まっ
    た翌日の県北津山に生まれ育った私のシンミリした印象です。思いがけず腹へらしの貧しい子どものころに戻り嬉しいです。
    (60代・岡山市内の男性)
  • 父の実家が西大寺でしたから父母に連れられて年二回ばかり祖父母に会いに行っていました。
    (70代以上・岡山市内の女性)
キハ8
キハ7
  • 私が小さいときに遠足で後楽園まで乗った写真が今もありますが、なつかしく思い出されます。
    (50代・岡山市内の女性)
  • 旧西大寺中学校第二期生であり、多くの友人が汽車通といえばけえべんでした。 教官・その他教員を出征兵士としてこの西大寺ホームで見送り、帰らぬ人もいます。岡山市内の書店に行くときは東山峠がきついのでけえべんで行きました。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 子どものころに乗りました。閉業記念には祖母も両親も出席し、記念のレールの文鎮と備前焼の灰皿をいただき大切にとってあります。タイムスリップしたようで、本当にセピア色した日々がとても懐かしく思い出されます。財田で乗り換え、山陽線で芦屋の母方の里へ幼いころ行っていたのも思い出されます。
    後楽園まで乗り、天満屋まで歩いて行ったことも多く、亡き父が生きていたらさぞかし懐かしく喜ぶでしょう。
    (60代・岡山市内の女性)
  • 西大寺駅が遊び場でした。ままごとセットを持って車庫の中の列車の中で一人で遊んでいました。藤原駅の近くでは走っている列車が私を見つけ、止まって乗せてくれたこともありました。兄は新橋の鉄橋の下にぶら下がり、列車の通る寸前に川に飛び込んだりしていました。私はレールに耳を近づけゴトンゴトンと音を聞いて…。
    今思えば危険なことばかり。
    (60代・岡山市内の女性)
  • 西大寺から森下駅まで乗って中学校に通っていたので、昔を思い出しとてもなつかしく写真をみせてもらいました。
    戦後の混乱期、デッキにぶら下がったり、男の人は屋根に乗ったり大変だったのを思い出します。
    (70代以上・岡山市内の女性)
  • 私は子どものころ(昭和18年ごろ)、砂川鉄橋の近くの新橋に住んでいました。小学校の帰り、近道するのに鉄橋を渡って帰ったことがよくありました。夏は鉄橋の下でよく泳いでいました。
    (70代以上・岡山市内の男性)
砂川鉄橋を渡る
財田駅
  • 小学生の頃、両親に連れられて乗ったけえべんを懐かしく思い出しました。邑久町から西大寺まで自転車で行き、けいべんに乗り換えて岡山へ。子供心にけいべんはとてもデラックスな乗り物で、年に数回のとびきりの小旅行だったように思います。
    (60代・岡山市内の女性)
  • 田や古い家屋の間をぬった、のどかな美しい風景を充分みせていただきました。長利駅から西大寺駅まで6年間、中学・高校と通学させていただきました。そのころ汽車通学生徒はみんなの憧れでした。もうあの発車には間に合わないよ、と皆が言う中走って飛び乗っていました。
    (70代以上・岡山市内の女性)
  • 私の母の里が財田だったので、毎週土・日にはけえべんに乗って行ったものでした。昔のことが今更ながら熱くよみがえりました。父親はけえべんの運転手をしており、私も機関区におりましたので、想いもひとしおです。
    (50代・岡山市内の男性)
  • 昭和33年~36年まで西大寺~財田~国鉄岡山駅まで通学しました。けえべんが途中(大師~財田)で燃料切れで止まったこともありました。運転手が財田まで燃料を取りに行く間、乗客(ほとんど学生)は文句も言わず、笑いながら待っていたことを懐かしく思い出します。
    (60代・岡山市内の男性)
  • 幼少のころは、親について後楽園~天満屋デパートで遊んだ。
    けえべんに乗って都会へ遊びに行くことが当時では豪華な旅でした。
    (70代以上・岡山市内の男性)
  • 小学生のころ、おじさんと西宮球場へ野球を観に行きました。帰りにけえべんと山陽本線(普通)とどちらが速いかと言われ、けえべんと答えました。けえべんは風を切って走っていたからだと思われます。中学3年の時のけえべん最後の日に、大多羅から後楽園まで2往復しました。
    (60代・岡山市内の男性)
出発見送り(後楽園駅)
ワボ13
  • 普段はバスを利用するので乗る機会がなく、最後の日に西大寺駅から大多羅まで乗った記憶がある。
    廃止後の市駅跡や車庫の方が記憶に残っている。
    (40代・岡山市内の男性)
  • 昭和34年ごろ、牛窓に住んでいて、夏休みになると大阪の実家の妹たちを迎えに財田へ迎えに行ったことがついこの間のことのように思い出されます。
    (70代以上・岡山市内)
  • 旧制中学校の頃、私たちは屋根に乗って通っていました。大多羅付近(鉄橋)では、出力不足(定員オーバー?
    燃料不足?)で止まってしまい、バケツで砂を線路にまいて遅刻することもしばしば。腹を立てた悪ガキ共が連結器を
    外して列車が離れ、皆もあきれることなく大笑い。
    昭和26年ごろから岡山市内に就職し、またけえべんにお世話になりました。発車したのに「待ってつかーさい!」と走ってくるおばあさんに車掌が気付いて列車を止めて待ったことがあります。
    (70代以上・岡山市内の男性)
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